anecdote07
2007 / 11 / 03 ( Sat ) 孤独融和
その人の顔は知っていた。 毎朝、見かける。 同じワンルームマンションの隣の部屋の住人だ。 毎朝、背中を見る。 同じ電車。 降りる駅は知らない。 伊藤の方が先に電車を降りるから。 一駅先か二駅先か、きっと通勤時間は大して変わらない。 単身赴任専用のワンルームマンションの住人が長時間の通勤をするはずがない。 伊藤と同年配の男の左手薬指には、伊藤と同じような結婚指輪があった。 同じような境遇の男。 結婚していて単身赴任をするということは持ち家か、子供が受験を控えて家族での引っ越しが難しかったということだ。 「おはようございます」 一度くらいは声をかけてみようかと思っていたところだった。 毎朝、顔を合わせるのに会釈だけ。しかも通勤路が途中までとはいえ同じなのに前後になって歩き、同じ電車の違う車両といのも味気ないと言えば言えるかもしれない。 その夜は月がキレイだった。 明るい電車の窓から月が見えた。 伊藤の乗った電車の中は白っぽい光に溢れ、線路脇に立ち並ぶビルが色とりどりのネオンで着飾る中、雲一つ無い、毒々しい人の吐息を拒む闇に月は浮かんでいた。 まわりを照らすでもなく、ぽっかりと空いた穴のように月はソコにあった。 穴。 それならば、世にも美しい穴が月だ。 穴の中に何があるのか覗いても分からないのが月だ。 ただ、ソコにある穴が月だ。 「月か・・・」 まだ娘が小さかったころ、月に住むウサギに会いたいと言って泣いたことがあった。月にウサギが本当に住んでいると思っていた娘は今、伊藤と口を聞いてくれない。あんなに懐いていたのに、久しぶりに家に帰っても碌に話しもしない。 「思春期なのよ」 妻は言うけれど、その妻でさえ、月に一度、単身赴任先から帰ってくる伊藤を喜々として迎えてくれているようには感じない。 「何時の新幹線で帰るんですか?」 家に帰り着いた伊藤に妻は必ず、訊く。 年度末などに帰れないと連絡しても妻も娘も関心が薄い。 何をしているのだろう? 何の為に働いているのだろう? 家のローンや子供の養育費を抱えた身では自由に使える金もなく、酒も強い訳ではなく、女遊びをするほどの度胸もなく、ただ毎日が部屋と会社の往復で終わってしまう。 この生活が二年も続いている。 まだ続きそうだ。 そして家に帰っても、もう単身赴任をする前と同じ生活が待っていてくれる訳ではない。 娘は大きくなった。 事務のパートをはじめた妻は雰囲気が変わった。 彼女たちは本当に伊藤の妻と娘なのだろうか? 時々、不安になる。 時々、不思議になる。 いったい何をしているのだろう? あの男も伊藤と同じように思うことがあるのだろうか? 隣の部屋の男。 同じ単身赴任の、あの男は伊藤と違って家に帰れば家族が優しく迎えてくれるのだろうか?男の帰りを家族が待っているのだろうか? 「ぁ」 電車を降りると男の背中が見えた。 男も同じ帰りの電車だったのだ。 時々、帰りも同じ電車になる。 そして毎回、なぜか伊藤は男の後ろを歩いている。 週末の22時半すぎ、男も一人だ。 声をかけてみようか? しかし伊藤は男の名前を知らない。 表札をかけてくれていれば分かるのだが、伊藤自身も表札をかけていない身では人のことは言えない。 誰が住んでいても気にならない。 それがワンルームマンションだ。 それが都会だ。 言ってしまえば、それだけだが、伊藤は今夜、どうしても男の名前が知りたくなった。 どうやって声をかけようか? 考えているうちにマンションに辿り着き、男がエレベーターホールに入った。 伊藤も続いた。 いつものように会釈をして、二人でエレベーターを待った。 「・・・」 「・・・」 無言で待っている間に伊藤は男が伊藤よりも少しだけ背が高いことを知った。 朝はエレベーターを待っている時間が惜しいので、二人とも非常階段を前後して下りている。 前後で歩いている時には感じないくらいの差が横に並ぶと歴然とした。 「背が・・・」 言おうとした言葉は最初の言葉かけとしては不適当な気がして伊藤は口を噤んだ。 「月が・・・」 伊藤の言葉に視線を向けてきた男の声がした。 「今日は月がキレイに出ていますね」 初めて聞いた男の声は思った以上に胸に響いた。 伊藤も見た月。 伊藤も思った月。 男も月を見ていた。 「そうですね」 口元に笑みを浮かべ、一瞬だけ男と視線を合わせ、その後、趣味の良い青い織りの男のネクタイに目を落としてから、先にエレベーターに乗った。 その夜、男の名前を知ることは出来なかったけれど、それだけの会話をしただけで伊藤は久しぶりに、ぐっすりと眠れた。 20070925 fin |
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